top of page

IKIGAI TASTE NO.9

  • 執筆者の写真: IKIGAI NOW
    IKIGAI NOW
  • 2025年12月11日
  • 読了時間: 7分

更新日:7月24日

20年後も、私たちの共通言語はウイスキー


村上春樹とともにアイラ島を再訪する


日付:2025年12月11日



アイラ島のウイスキーは、村上春樹の作品を通じて、ウイスキー愛好家であり文学ファンでもある人々にとって、唯一無二の存在となりました。それはハイランド・ウイスキーのやわらかな花の香りでもなく、スペイサイド・ウイスキーの豊かな果実香でもありません。スコットランド南西部、人口わずか約3,000人の小さな島で、ピートと潮風、そして約250年に及ぶ孤独が育んだ、世界でもっとも好き嫌いが分かれるウイスキーです。そして、この島を日本の読者へと紹介したのが、ほかならぬ村上春樹でした。

サントリーに招かれたアイラ島への旅


1997年、村上春樹はサントリーの招待を受け、スコットランドのウイスキーの聖地・アイラ島を訪れました。村上陽子夫人とともに、本来は私的なアイルランド旅行を予定していましたが、偶然ウイスキーに関する原稿を依頼されたことから、「それならウイスキーをテーマにしよう」と発想を転換します。この旅は後に紀行エッセイ『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』としてまとめられ、1999年に刊行されました。

本書には難解な蒸留技術やテイスティング論はほとんど登場しません。その代わりに、ウイスキーと旅をめぐる数々の興味深いエピソードが綴られています。村上は島のパブで7つの蒸溜所のシングルモルトを飲み比べ、静かな夜にグレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を聴きながら飲むなら、ほのかな花束の香りをまとったブナハーブンがよいと記しています。そしてアイラ島のウイスキーを、「個性的で、海霧のようなスモーキーさ」と表現しました。


村上は「酒というものは、どんな酒であれ、やはり産地で飲むのがいちばん美味しい。産地に近ければ近いほどいい」と語っています。アイラ島のウイスキーもまた、現地でこそ本当の魅力を理解できる酒なのです。

アイラ島――ピートと潮風、そして正露丸の香り


アイラ島はスコットランド西海岸沖に位置し、全長約40km、幅約13kmの島です。決して大きな島ではありませんが、ブナハーブン(Bunnahabhain)、アードベッグ(Ardbeg)、ボウモア(Bowmore)、ラフロイグ(Laphroaig)、ラガヴーリン(Lagavulin)、カリラ(Caol Ila)などを含む9つのウイスキー蒸溜所が集まっています。


アイラモルト最大の特徴は、力強いピート香です。より率直に言えば、正露丸や消毒液を思わせる独特の香りでもあります。この香りはどこから生まれるのでしょうか。アイラ島のおよそ4分の1は泥炭地に覆われています。ピートとは、長い年月をかけて堆積した植物が分解された燃料であり、島では古くから生活に欠かせないエネルギー源でした。蒸溜所では、大麦を発芽させた後、ピートを燃やした煙で麦芽を乾燥させます。その煙に含まれるフェノール成分が麦芽へと移り、あの好き嫌いが分かれる「薬品のような香り」を生み出すのです。


さらに、アイラ島のウイスキーを語るうえで欠かせないもう一つの要素が潮風です。蒸溜所の多くは大西洋に面し、熟成樽は一年中吹きつける海風の影響を受けます。ピートの燻香とほのかな潮のニュアンスが重なり合い、アイラ島だけの唯一無二の個性を形づくっています。



村上春樹が愛したアイラ島の蒸溜所


数ある蒸溜所のなかでも、村上春樹が特に印象深く紹介しているのがブナハーブンです。



ブナハーブン(Bunnahabhain)はアイラ島北東部に位置し、ゲール語で「川の河口」を意味します。他のアイラ蒸溜所とは異なり、ピートをほとんど使用しないシングルモルトを代表銘柄としています。仕込み水には泥炭層を通らない清らかな湧水が使われ、村上はその香りを「ほのかな花束の香り」と表現しました。大西洋の潮風を受けながら熟成されることで、やさしい塩味のニュアンスも感じられます。アイラモルトの中でも異彩を放つ、穏やかでなめらかな味わいでありながら、確かに海の記憶を宿した一本です。


アードベッグ(Ardbeg)は、また別の極致ともいえる存在です。村上春樹は、アードベッグをアイラ島でもっとも重厚で、もっとも荒々しく、もっとも土臭さを感じさせるウイスキーだと評しています。愛好家の間では正露丸や消毒液を思わせる香りとも表現され、その強烈な個性は一度味わうと忘れられません。村上はアードベッグを飲む感覚を、「グレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を延々と聴いているようなもの」とたとえています。本来は子守歌のような形式の作品でありながら、演奏は驚くほど刺激的。しかし同時に、「毎日飲むには少々きつい」とも率直に記しています。日常酒というより、ときおり味わう特別な一本なのかもしれません。


どう飲む?――村上春樹流「トワイスアップ」アイラモルトはどのように飲むのがよいのでしょうか。その答えを、村上春樹は著書の中で明快に示しています。


アイラ島で彼が地元の人々から教わった飲み方は、ウイスキーと常温の水を1対1で割る「トワイスアップ」です。方法はいたって簡単。グラスにウイスキーを注ぎ、同量の水を加え、軽くグラスを回すだけ。もちろん、できることなら現地の水を使うのが理想で、日本のミネラルウォーターではどこか物足りなさを感じるとも書いています。



この飲み方には、実に理にかなった理由があります。アイラモルトは個性が非常に強く、とりわけピートの効いた銘柄は、ストレートではスモーキーさやヨード香が前面に出すぎることがあります。しかし同量の水を加えることで香りが大きく開き、ピートの奥に隠れていた柑橘や蜂蜜、あるいは海塩を思わせる繊細なニュアンスが次々と姿を現します。村上も、アイラ島のパブで飲み比べた7種類のシングルモルトは、どれも水を加えることでそれぞれ異なる個性を見せてくれたと綴っています。

もちろん、これだけが正解ではありません。バーで良質な氷があるなら、オン・ザ・ロックスも悪くありません。しかし、自宅で村上がもっとも好んだのは、シンプルで、飾り気がなく、ウイスキー本来の魅力を引き出す「トワイスアップ」でした。


何と合わせる?――牡蠣とピートが生み出す最高のマリアージュアイラモルトともっとも有名な組み合わせといえば、やはり生牡蠣です。

村上春樹は『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』の中で、ブナハーブンを牡蠣に少しかけて味わった体験を綴っています。

「牡蠣の潮騒のような風味と、アイラ島のウイスキーが持つ個性的で海霧のようなスモーキーさが、口の中で濃密にひとつに溶け合った。」



これは偶然の組み合わせではありません。牡蠣の濃厚な旨味とミネラル感は、アイラモルトが持つ海のニュアンスと同じ風土から生まれています。さらにピートの燻香が、まるで炭火で軽く炙ったような香ばしさを添えてくれます。まず殻の中の旨味たっぷりの汁を味わい、その余韻をアイラモルトで包み込む――海の塩気とピートスモークが喉の奥で重なり合い、まるで嵐の大西洋を望む海岸に立っているかのような感覚を味わえます。


牡蠣だけではありません。スモークサーモンもまた理想的な相棒です。脂ののったサーモンとピート香が重なり合い、燻香と甘み、塩味が幾重にも広がります。ブルーチーズもぜひ試したい一品で、濃厚なコクと塩味が、アイラモルトの力強い個性に見事に応えてくれます。



もし自宅で村上の旅を追体験するなら、

新鮮な牡蠣を一ダース、アイラモルトを一本用意し、静かな夜にグレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を流してみてください。牡蠣に一滴落としたウイスキーが、きっとあなたを大西洋に浮かぶあの小さな島へと連れて行ってくれるでしょう。

結びアイラ島のウイスキーが人を惹きつける理由は、その決して迎合しない個性にあります。

正露丸のような香りを好むかどうかなど気にしません。ピート香を荒々しいと感じるかどうかも問いません。ただひたすら誠実に、そして頑固なまでに、ピート、潮風、長く孤独な熟成の歳月という島の風土すべてを、一瓶の琥珀色の液体へと閉じ込めているのです。

村上春樹は一冊の本を通して、日本の読者にアイラ島という特別な場所を紹介しました。そして彼がこの島で得たもっとも深い言葉は、おそらく蒸溜所のスタッフから聞いた次の一言でしょう。

「多くの人は熟成年数が長いほど美味しいと思っている。でも、そうではない。歳月によって得られるものもあれば、失われるものもある。結局は個性の違いなのだ。」


次にアイラモルトのボトルを開けるときは、ぜひ村上流を試してみてください。トワイスアップにし、生牡蠣を添え、一枚のレコードを静かに流す。その一杯には、ピートの煙、潮風の塩気、そして250年近い孤独と誇りが詰まっています。それは、アイラ島がウイスキーという言葉で世界へ宛てた一通


の手紙なのです。

そして、その手紙への返事の仕方を、村上春樹はすでに私たちへ教えてくれています。

「私が黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉へ流し込めばいい。それだけで十分、そして何より正確なのだ。」



※お酒は適量を楽しみ、20歳未満の飲酒および飲酒運転は法律で禁止されています。

 




コメント


bottom of page